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みんなでつくり・つないでいく病院(樋口 祐介さん)

2013年9月9日

私は患者や病院で働くスタッフ、そして地域の人に対してもっと開かれた「みんなで考え」「みんなでつくり」「みんなが集まる」病院を目指して医療福祉建築を学んでいます。

なぜ私が医療福祉建築(※1)の道に進んだのか、きっかけは今から7年半前私がユーイング肉腫(小児がん)を発症し入院治療をした1年半にあります。

当時私は中学2年生14歳でした。病室は6人部屋、一人あたりのスペースは2畳ほどでした。子供のベッドの隣の70cmほどの隙間にゴザを引き母親が付き添い看病するという悲惨な現状が当たり前のように広がっていました。子供の副作用や泣き声で夜も眠れず、涙を流せる場所もない。そんな環境の中で心を病み身体を壊していく親も少なくありませんでした。「患者も家族も元気になれる病院があったらいいのに」これが1つめのきっかけです。

もう1つは、みーちゃんという当時9歳女の子との出会いにあります。みーちゃんは先天性の多臓器に関わる病気で、生まれてから13歳で亡くなるまでずっと、一生を病院で過ごしました。彼女が入院していた小児外科病棟は北側で、廊下を2本挟んで南側が私の入院する小児内科病棟でした。暗くひんやりとした北側の廊下のベンチに彼女はいつも座っていました。誰かが来るとにっこり笑って嬉しそうにしていました。私は退院した後も彼女に会いに行き廊下のベンチで一緒に話していました。しかし会う度に別れの足音が徐々に近づいていることは日に日に悪くなっていく彼女の顔色を見れば分かりました。それから、彼女が亡くなり悲しみと悔しさの中で私は心に誓いました。一生を病院で過ごす子供もいる、暗く寒い廊下で誰かが来てくれるのを待つなんて、そんな寂しい思いをさせてはならないと。このとき、患者や家族を取り巻く環境を変えたいという漠然とした思いが病院の設計をしたいという目標に変わったのでした。

そして、大学生になり設計事務所でアルバイトをする中で、今までは利用する側で見ていた病院を、今度は設計する側の視点で見る事ができるようになったことで新たな発見と課題が見えてきました。

まず、設計者の中に長期入院経験はほとんどいないということ。これは、よく考えてみると当たり前かもしれませんが、重要なことです。論文や書物から得た知識で設計はできますが、病室など今まで体験したことのない空間を想像することは非常に難しく、使っている姿が見えづらいのです。学生の単純な思考かもしれませんが、ワークショップなどを設計に取り入れ、患者やスタッフの意見を聞く機会が多くあれば設計しやすいのにと思っています。

また、がんサバイバー多くが直面する問題として偏見があります。教育の問題ともいえますが普段病気の人を見かけないという距離感の問題でもあると私は考えています。

例えば、病院の待合室がオープンカフェだったなら車いすに座ってコーヒーを飲んでいるおじいさんの隣でサラリーマンがパソコンをカタカタと打っている。あるいは、小児科のプレイルームが公園だったなら、抗がん剤で髪が抜けた子供たちと近所の子供たちが一緒に遊んでいる。そんな光景が日常になるかもしれません。病気になったら社会から切り離されてしまう現在の病院ではなく、病院が「多くの人が集まる場所」というキーワードのもとに生活の一部となったなら、差別や偏見が減るだけでなく検診率も向上することでしょう。

そのような「社会に開かれた、みんなで考え・つくり・育てる病院」は少しずつ日本にも増えてきています。(南生協病院:日建設計など)このまだ小さな動きを確実に未来につなげるには私たちがんサバイバーが声を上げていかなければなりません。沢山の仲間が天国から見ている中で私たちがやるべきことは、今闘っている仲間やこれから病と闘っていく仲間たちのために、よい環境をつくっていくことではないでしょうか。

私はがんサバイバーとして設計する側と利用する側の架け橋となり「社会に開かれた、みんなで考え・つくり・育てる病院」が日本に増えることで、これから病と闘う人々のためによい環境を残していきたいと考えます。

※1
医療福祉建築とは簡単に言うと、病院や高齢者施設をまとめて医療福祉建築と言います。病院には医者・看護師・外来患者・入院患者・急患・掃除の方・食事・技師・などまだまだ沢山ありますが、様々な立場の人が大勢集まります。つまり、病院の設計は住宅やオフィスビルに比べると複雑であり専門的知識が必要なのです。

樋口祐介 (20代、男性)