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私のサバイバーストーリー(茨城のTomeさん)

2013年9月5日

2005年会社の健康診断(レントゲン撮影)での指摘を受け総合病院を受診、再検としましたが、数年前にも同じようなことがあり再検の結果異常は無く、また同じだと軽い考えもありました。ヘビースモーカー(1日40本以上)でもあり職業柄も含め多少の異常はあっても大丈夫と思いながらも、その時はいつもと違い何処かに不安を持っていましたが、マイコプラズマ肺炎との診断に、一番聞きたくない病名では無かったとの安心感か、その病名に嬉しさすら感じていたかもしれませんね。

その後、日毎に増える咳に受診を繰り返した1年後に聞きたくなかった病名とステージⅣの診断を聞かされてしまいました。1人息子の小学校入学から一月が経つ2006年5月でした。肺がんの告知は心の何処かで覚悟してはいましたが、医師の前で両手を膝に置き、下を向いたまま目を閉じていましたが、わりと冷静に結果を受け入れた事を覚えています。

「死ぬわけにはいかない」ただガンを治したいと、恥ずかしながらセカンドピニオンという言葉すら知らずそんな仕組みの存在すら知らず、この病気を治すにはと考え、僅かばかりの知識から国立がんセンター東病院の受診を希望しました。セカンドピ二オンなるモノを使ったところ幾つかの不思議?な体験(苦痛)がありましたが。そこから多くの人間達(医師)に恵まれた結果として数カ月の時間は掛かりましたが世の中に戻ってくることが出来ました。

これは私の勝手な感想ですがこの年、2006年6月16日に可決成立された「がん対策基本法」、この成立に向けその数カ月前から加速した多くの方々の行動が、志ある医療関係者(医師達)の追い風と成り後押ししてくれた事が私にとっての大きな幸運の1つであったと感じています。この法案成立十日後に迷いのない医師達の闘志溢れる言葉を受け右肺全摘出の手術を受けました。

退院後の自宅療養としましたが入院中に衰えた体はとても80キロを超え3Lサイズの服を着ていた男とは想像できない痩せ細ったもので、この体では世の中に戻る事は不可能としか思えませんでした。着る服がなく退院後に買ったTシャツはLサイズ、36インチのジーパンは32インチに変わりました。がんで失った右肺分の呼吸を少しでも取り戻すためウォーキングを繰り返し僅かな体力回復を図り退院後2カ月、治療開始から五ヶ月が掛かりましたが会社復帰を果たすことが出来ました。

会社復帰を果たした初日に私を迎えてくれたのは、悪口ではありません、右肺を失ったサバイバーを気遣い、手を差し伸べてくれたものとは思えない、いつもと変わらぬ仕事の流れでした。発病前何十年も経験した仕事の流れ、人の動き、今の俺の体ではついてはいけないと感じる全てのスピード、職場の雰囲気その全てがその時の私には、最高に嬉しいもので、ついていけないと知りながら私の拙い頭と体、何より気持ちはそれを喜び反応し対応しようとしていました。後々、冷静に考えてみましたが、単に私自身ががんに侵され治療期間を貰い社会(会社)の流れからは外れていただけで私以外の全ては発病前と何も変わらず当たり前の営みを繰り返しているにすぎず。当然ながら私ががんであることは何の関係もなく世の中は動きます。そして多くの人達の生活の糧を生み出す為に日々流れを止めることはありません。

それから1年置きの二度の闘病~社会復帰を繰り返し多くの関係者にはご迷惑をお掛けしながら初回発病から7年間が経つ現在も同じ職場での仕事を続けさせてもらい来春勤続33年を迎えます。二つ目のがん、上咽頭がんの闘病が終わり復帰した後はリハビリ的な対応もして頂きながら元のポジションへの完全復帰を目指しましたが、繰り返しの闘病でメインとしていた仕事は他の方に引き継ぎ現在は指導という形で関わらせてもらっています。しばらくして自身の判断と相談した上長の配慮で負担の少ないポジションに変更してもらいました。この7年間、多くの方々と仕事、プライベートと過ごす中で本人には悪意はないのですが言葉1つ、態度1つに腹を立てる場面がいくつもありましたが、相手に悪気が無い以上、これは私のワガママ甘えなのでしょう。

現在世の中では「がんと就労」と題し様々な議論や活動が行われています。がんを宣告されたからといって治療費や生活費全てを国や自治体が保障してはくれませんがんの告知を受け治療を開始しても治療が終わってもサバイバーとその家族には変わらぬ生活が有り、それまでとは違うリズムが出てきてもそれに合わせた生活をしていかなければならずそのための収入を得るため仕事を続けることが必要です。

がんサバイバーがそうでない方の目にどんな姿で映ったとしてもそのサバイバーの子供達はあすの朝、他の子たちと同じように学校に通います、1人の人間としてこれからの長い人生を送っていくために。そのためにもしばらくの間まだ親の力が必要なのです。ですが現実の1つとしてがんの告知を受けた者には冷酷と言わざるを得ない対応もあることは、多くのサバイバーとその周りの方々がご存じの通り事実として存在します。

私個人はがんと告知を受けたことは不適切な発言ですが片腕を落とされた事と同じなのだと感じました。サバイバー全員がとは言い切れませんが、多くはその能力が僅かにでも下がると考えます。サバイバー同士でも違いはもちろんありますが、臓器の1つを切除し抗がん剤や放射線治療の副作用を経験した私自身の体の性能は落ちたと認めざるを得ません。また少なからず健康な方達に比べ、また社会の流れから離れる可能性が高い事も否定できません。

がんを告知された時から、サバイバーはどんな状態でも生涯、健康な人達よりもがんと向き合い深く付き合っていかなければならないと考えます。それが「がんサバイバー」として宿命であると。

幸いにして私の場合は理解者が多く、以前とさほど変わらない環境の中で生きています。更には2009年リレーフォーライフに出会い多くのサバイバー仲間が出来がん経験者としてもう1つの社会にも身を置く事も出来ましたが、中には残念にも家族との生活の糧を奪われる結果となってしまった方達がいます。その残念な出来事はサバイバーに対応するうえでマイナス面ばかりが前面に出て考えられてしまった結果なのでしょう。

まだまだサバイバーは、がん告知を受けたという事は世の様々な流れにとって障害と判断される材料となってしまっています。しかし世の流れを生み出すその場が相応の大きさと流れを持つ場所であるならば、サバイバー達に糧を生み出す場をその場の中でふたたび与えてくれる事は、決して難しくは無い事だと考えます。またそれは社会としての1つの責任でも有ると考えます。

この数年間、幾つかのがん啓発イベントに参加し、また様々な形でサバイバーの意見、経験を見聞きさせてもらいました。がん撲滅、がん制圧、早期発見早期治療、これから残念にも告知を受けてしまう人を1人でも減らしがんのない社会をがんが簡単に治る社会を目指し多くの方達の力が全国各地で集まっています。

サバイバーに対しての哀しい対応や言葉に傷つき立ち上がる力を失ってしまう方もいます。そんなサバイバーの力になろうと集まる方達がいてくれます。どれも現実社会に起こっている事実であり1つ1つが重要で大切な事である事も多くの方が承知の事と思います。ですが、サバイバーにとってはがんを患った事は消しようがなく目の前に鎮座する大きな事実です。

がん撲滅、がん制圧が達成していない現時点では、まだそこにたどり着くには時間が掛かる現在、サバイバー本来の心の奥底にある望みは「世の中に戻る事」「もと居た場所にもどる事」が大きな願いであると思います。たとえ今までいたその場所が少しくらい汚れ傷付いていたとしても・・・。

元居た場所への「社会復帰」これがサバイバーにとって最大の願いの1つではないでしょうか。家族のある者にとっては日々家族との共に泣き共に笑う幸せな生活のため。子を持つ親は親として子を大きな愛情で抱きしめ共に育つため。若者は仲間との楽しい時のため未来の愛する人のために。子供達は両親の腕に抱かれ温かな愛情に包まれ巣立っていくため。

皆がそれぞれの場所でそれぞれの立場でもと居場所への「社会復帰」を望んでいるはずです。

そのためには「がんサバイバー」へのフォローを企業や社会に丸投げにせず、国、行政機関からの現場に踏み込んだ協力が不可欠だと考えます。そして「がんサバイバー」の皆さんと「がんサバイバー」のために活動されている皆さんに御願いです。命を失う病は「がん」だけではありません。ハンディキャップを背負うのも「がんサバイバー」だけではありません。

皆さんの貴重な活動の一部分を貴重な時間の何十分の一かを、他の病気のサバイバーと繋がる場意見交換の場に繋げて頂けないでしょうか。

共に培った力を合わせるもう一本の道の扉は開き始めていませんか。

 

茨城のTomeさん (50代、男性)